人を正しく愛する力を長所としての磨く方法

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「人を愛する」と聞いて思い浮かべるのはどんなことでしょうか?
“出会って、その人を好きになる。その先に自然に「愛」になる。”
そう思われている方もいるのではないでしょうか?

 

私は「好き」と「愛する」は別物だと思うのです。

 

「好き」という気持ちは、確かに自然な気持ちです。
気が付いたら好きになっている。そんなもの。
でも、「好き」なのは相手の顔や声、性格、しぐさ、将来性であって、もし相手があなたにとって好ましくない方向に変化したら「嫌い」になるかもしれません。

 

相手の条件によって嫌いにもなれるのが「好き」という気持ち。
対して「愛する」とは、相手の条件には影響されない気持ちです。

 

「愛する」というのは、相手の長所だけを見て湧きだすものではありません。
長所も短所も、尊敬出来ない部分もすべて受け止める覚悟がある気持ちが「愛する」なのではないでしょうか。
愛する側に覚悟が必要ということは、ある意味努力も必要だということ。

 

「愛する」とは与えること、受け入れること、許すことだから、ちょっとやそっとの力では操縦できません。
それなりの大きな力(心)があってこそ「人を愛する」ことが出来るのではないでしょうか。

 

誰だって生きていれば調子のいい時もあれば悪い時もあります。
身体も心も常に変化しているのです。
それでも「愛する」という覚悟(意識)があるから愛し続けられるのです。

 

そして「愛する」気持ちは、育ち成長します。
二人の間で起きた良いことも悪いことも共に共感、共有し合うことで成長していきます。
手間暇かけて育てたものだからこそ、より一層愛が深まるのです。
手間暇かける努力を惜しまないのも愛があるからできる事。

 

自然に湧きだす気持ちが「好き」なのであれば、そこから努力して、手間暇かけて成長させて「愛する」になるのだと思います。
結婚して夫婦になってしまうと、自分や相手を役割分担に捉えがちです。

 

夫婦なのだから愛し合って当然。愛するのが夫(妻)の役割…
男性である夫は妻を守るのが当然の役割…
女性である妻は夫に尽すのが役割…等。

 

「自分を犠牲にして夫(妻)に尽してきた」
「夫を立てるのは妻ならば当然」
役割分担で夫婦を捉えてしまう時、そこには不満が生まれやすくなります。
同時に被害者や犠牲意識も生まれやすくなるのです。

 

仕事をする職場では、少なからず役割分担がされています。
しかし、役割分担があるということは上下関係があるということでもあるのです。
職場の上司と部下、学校の先生と生徒というように、はっきりした上下関係で成り立っている場合はいいのですが、夫婦関係には上下関係は必要ありません。
むしろ対等でなければならないのです。
いや、対等でなければ続かないのです。

 

上下関係がある夫婦かどうかを判断する基準は難しいのですが、相手に依存していない関係であることは確かです。

 

子供は親がいないと生きていけません。ある意味依存しているということ。
「あなたがいないと生きていけない私」になっている方は、相手に依存している可能性が高いと言えます。

 

相手から「理解してもらおう」「~をもらおう」と受け取ることばかりを考えている時も依存している可能性が高いです。
自立した大人であれば、相手からもらうことよりも、どれだけ相手を「理解できるか」「~をあげられるか」の”与える”ことを考えます。

 

依存している時、相手からもらえなくなった時のことを考えて心配になります。
そして実際に受け取れなくなった時、愛されていないかもしれないと不安になります。
これは、「自分が」受け取ることばかりを考えてしまっているから。
つまり、依存は相手を愛しているのではないのです。自分が愛されたいだけなのです。
「愛する力が足りない」と思える方は、「愛される力」にも不安を抱えることになるのです。

 

自立した人は、相手の状況や変化にも影響されることはありません。相手の状況に影響されることなく、覚悟した愛を与えることが出来ます。
そこには心配も不安も入りこむ隙がありません。

 

愛する力を磨くのは、人として自立することなのかもしれませんね。
そして目指す夫婦像というのは、互いに自立した対等な関係であることなのかもしれません。
恐らくきっと、それが互いに離婚へ至らず愛し続けることが出来る関係なのだから。

 

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